万葉歌碑

Manyo Tanka Insecriptions
山上憶良の日本挽歌をはじめ、新年号「令和」ゆかりの大伴旅人まで。園内に16基の歌碑を設置しました。「遠の朝廷」と称され、万葉集に数多く詠まれた太宰府。令和元年。新しい時代の幕開けに、メモリアルパークの眺望と歌碑を通じて「万葉」を感じてください。

太宰府は、「元号ゆかりの地」です。

新元号「令和」は、萬葉集巻五・梅花の宴序文から引用されました。「梅花の宴」とは大宰府にあった大伴旅人(大宰帥)の邸宅で行われた白梅を愛でる宴です。

大宰府の丘展望台

大宰師に任命された大伴旅人と共に筑紫にやって来た妻「大伴郎女」は旅の疲れも取れていない神亀5年の初夏、急逝しました。旅人の悲しみの歌「凶問報歌」に続き、山上憶良が旅人に成り代わり詠んだ歌、それが「日本挽歌」です。

メモリアル渓流

万葉集に詠まれた植物は数多くあります。現代において親しみを持たれている植物が詠まれた歌から選別し、渓流に沿って歌碑を設置致しました。

御食事処「圓通閣」

万葉集の中で最も華やかな「梅花の宴」が天平二年正月十三日、大宰師大伴旅人邸で盛大に催されました。九州管内諸国の官人三十二名は中国渡来の梅を題材に歌を詠んでいます。その宴での歌が「梅花の宴」です。

   梅花の歌三十二首あわせて序

天平二年正月十三日に、帥老そちおきないえあつまりて、宴会
ぶ。時に、初春のれいげつにして、気淑きよく風ぐ。
梅は鏡前きょうぜんふんを披き、蘭は珮後ばいごの香を薫らす。                           
~略~  

天平二年。正月十三日に、大宰帥大伴旅人卿の邸宅に集まって宴会を行う。
時に、初春の良い月で、気持ちよく風は穏やかだ。
梅は、鏡の前での白粉の様に広がり、蘭は匂い袋の様に薫っている。
新元号「令和」は、萬葉集巻五・梅花の宴序文から引用されました。
「梅花の宴」とは大宰府にあった大伴旅人(大宰帥)の邸宅で行われた白梅を愛でる宴です。

大宰府の丘展望台

大宰師に任命された大伴旅人と共に筑紫にやって来た妻「大伴郎女」は旅の疲れも取れていない神亀5年の初夏、急逝しました。旅人の悲しみの歌「凶問報歌」に続き、山上憶良が旅人に成り代わり詠んだ歌、それが「日本挽歌」です。
世の中は空しきものと知る時し
いよよますます悲しかりけり
世の中は空しいものだと知った時、いよいよますます悲しみが深まってくる。
万葉集巻五・七九三 大宰師大伴卿
家に行きて如何にか吾がせむ
枕づく妻屋さぶしく思ほゆべしも
家に帰って、私はどうしたらよいのだろう。(枕づく)寝室が寂しく思われるに違いない。
万葉集巻五・七九五 山上憶良
愛しきよしかくのみからに慕ひ
来し妹が心のすべもすべなさ
ああ、いとしいことよ。こんなにはかない命だったのに、私を慕ってやって来た妻の心が、どうしようもなく哀れなことよ。
万葉集巻五・七九六 山上憶良
大君の遠の朝廷としらぬひ筑紫の国に
泣く子なす慕ひ来まして
息をだにいまだ休めず
年月もいまだあらねば心ゆも思いは間に
うちなびき臥やしぬれ言はむ術せむ術知らに
石本をも問ひ放け知らず
家ならばかたちはあらむを
恨しき妹の命の我をばもいかにせよとか
にほ鳥の二人並び居語らひし心そむきて
家離りいます
大君の遠い政庁として、(しらぬひ)筑紫の国に、泣く子のように慕ってやって来られて、一息入れて休む間もまだなく、年月もまだ経っていないのに、死ぬなどとは夢にも思わない間に、ぐったりと臥してしまわれたので、言うすべもなすすべも分らず、岩や木に向かって尋ねることもできない。家にいたら無事だったろうに、恨めしい妻は、この私にどうせよと言うのか、にお鳥のように二人並んで座って語りあった偕老同穴の約束にそむいて、家を離れて行ってしまわれた。
万葉集巻五・七九四 山上憶良
久夜斯可母可久斯良摩世婆阿乎尓与
斯久奴知許等其等美世摩斯母乃乎
悔しいことよ。こんなことになると知っていたら、(あをによし)国中をすべて見せてやるのだったのに。
万葉集巻五・七九七 山上憶良
妹が見し楝の花は散りぬべし
吾が泣く涙いまだ干なくに
妻が見た楝の花は、散ってしまうであろう。私の泣く涙はまだ乾かないのに。
万葉集巻五・七九八 山上憶良
大野山霧立ち渡る我が嘆く
息嘯の風に霧立ちわたる
大野山に霧が一面に立ちこめている。私が嘆く嘆きの息の風で霧が立ちこめている。
万葉集巻五・七九九 山上憶良

メモリアル渓流

万葉集に詠まれた植物は数多くあります。
現代において親しみを持たれている植物が詠まれた歌から選別し、歌碑を設置致しました。
わすれ草わが紐に付く
香久山のふりにし里を忘れむがため
忘れ草を私は腰紐につけています。香久山の見える故郷を忘れるために。
万葉集巻三・三三四 大宰師大伴卿
秋の野に咲きたる花を
指折りかき数ふれば七種の花
秋の野に咲いている花々を指折り数えてみると七種の花がある。
万葉集巻八・一五三七 山上憶良
萩の花尾花葛花撫子の花
女郎花また藤袴朝顔の花
秋の七草は萩、ススキ、葛、撫子、おみなえし、藤袴、朝顔。
万葉集巻八・一五三八 山上憶良
春の野にすみれ摘みにと来しわれぞ
野をなつかしみ一夜寝にける
春の野にすみれを摘みに来たけれど、野に心を惹かれて一晩寝てしまったよ。
万葉集巻八・一四二四 山部赤人
路の辺の壱師の花のいちしろく
人皆知りぬわが恋妻は
道端に咲いている彼岸花のように私の恋しい妻のことを皆に知られてしまった。
万葉集巻十一・二四八〇 柿本人麿呂

御食事処「圓通閣」

万葉集の中で最も華やかな「梅花の宴」が天平二年正月十三日、大宰師大伴旅人邸で盛大に催されました。
九州管内諸国の官人三十二名は中国渡来の梅を題材に歌を詠んでいます。その宴での歌が「梅花の宴」です
春去ればまづ咲く宿の梅の花
ひとり見つつや春日暮らさむ
真っ先に咲くこの家の庭の梅の花を、ただひとりで見ながら春の長い日を暮らすことであろうか。
万葉集巻五・七九三 大宰師大伴卿
我が園に梅の花散る
久方の天より雪の流れ来るかも
わが家の庭に梅の花が散っている。天から雪が流れて来るのであろうか。
万葉集巻五・八二二 大宰師大伴卿
梅の花散らくはいづく
しかすがにこの城の山に雪は降りつつ
梅の花が散っているのはどこだろう。しかしながら、ここの大野山には雪が降り続いている。
万葉集巻五・八二三 大監伴氏百代
春の野に霧立ちわたり
降る雪と人の見るまで梅の花散る
春の野に霧が立ちこめている。まるで、雪が降っているのかと見違えるほど梅の花が散っている。
万葉集巻五・八三九 筑前目田氏真上

萬葉集と大宰府

(平成三十一年四月七日・文化推進室 日下部)

萬葉集とは
萬葉集は全二十巻からなり、七世紀後半から八世紀後半に編纂された日本最古の和歌集です。天皇、貴族、下級役人など様々な身分の人々が詠んだ歌が約四千五百首も掲載されています(因みに、萬葉集第一巻の最初の歌は、雄略天皇です)。萬葉集は、いつ誰がどのような意図で編纂したかは明らかになっておりませんが、勅撰説(天皇の命により作られたもの)や、大伴家持編纂説があります。今日では、大伴家持編纂説が有力です。
表記
萬葉集は万葉仮名で記載されています。万葉仮名は、日本語を表記する為に漢字の音を利用した文字の事です。漢字自体の意味ではなく、音が重要です。 (原文)伊毛何美斯(いもがみし) 阿布知乃波那波(あふちのはなは) 知利奴倍斯(ちりぬべし) 和何那久那(わがなくな)美(み)多(た) 伊摩陁飛那久尓(いまだひなくに)
萬葉集の歌体・項目
  • 短歌   五七五七七
  • 長歌   五七を長く続け最後を五七七という形で結ぶもの(長歌に添える短歌は反歌)
  • 旋頭歌せどうか  五七七を二回繰り返した六句からなり上三句と下三句とで詠み手の立場が異なる歌が多い
分類項目名
  • 雑歌ぞうか   相聞歌、挽歌以外の歌。宴などで詠まれた歌など自然に関係する歌
  • 相聞歌そうもんか  男女の恋の歌
  • 挽歌ばんか   死者を偲び、慎む歌
歌人
代表的な歌人として柿本人麻呂、大伴家持、山部赤人、山上憶良、大伴旅人、額田王などがいます。
山上憶良と大伴旅人の年表
大宰府を舞台としたであろう歌は約二〇〇首、関係が深いと言われている歌が約五十七首あります。特に第五巻は大宰府に関わりのある歌について編纂されたもっとも関係性が深い巻となります。
  • 大伴旅人について(六六五~七三一 ) 大納言(従二位) 掲載数七十八首
  • 山上憶良について(六六〇~七三三?) 筑前守(国司)  掲載数七十八首
  • 六六〇年 山上憶良が生まれる
  • 六六五年 大伴旅人が生まれる
  • 七〇一年 山上憶良が第七次遣唐使の少録 四十三歳から四十八歳までを唐で過ごす
  • 七一四年 山上憶良が正六位下から従五位下に昇進
  • 七一六年 山上憶良が伯耆(ほうき)守
  • 七一八年 大伴家持が生まれる
  • 七一八年 大伴旅人が中納言
  • 七二〇年 征隼人持節代将軍として九州に赴任。功績を上げる
  • 七二一年 大伴旅人が従三位
  • 七二四年 大伴旅人が正三位
  • 七二六年 山上憶良が筑前守(六十五歳位)
  • 七二八年 大伴旅人が大宰帥として赴任 後に万葉筑紫歌壇と呼ばれる
  • 七三〇年 大伴旅人が大納言として帰京(家持も帰京)
  • 七三一年 大伴旅人が従二位
  • 七三一年 大伴旅人死去
  • 七三二年 山上憶良が任期終了につき帰京。その後すぐに没
※ 位は、正一位、従一位、正二位、従二位と続く。従二位は大臣クラス。
大伴旅人は、萬葉集において大宰帥大伴卿、大納言卿などで記載があります。旅人は武人であり、戦にて多数の功績を上げたものと思われます。旅人の大宰府赴任には幾つかの説があり、菅原道真同様の左遷説や、妥当人事説があります。旅人が長屋王派であり、長屋王失脚による影響が有ったのではないかと見る向きもあるからです。 一方、山上憶良は七〇一年の少録の際、位が無いところを見ると遅咲きの人です。筑前守となり大伴旅人と出会う時にはすでに六十五歳でした。大伴旅人とは五歳違いくらいでしょうか。位は大きく差があり友人とは違うのかも知れませんがお互いにその素質を認め、交流を深めたことは間違いありません。
大宰府に関係の深い巻五について
それでは、大宰府に所縁の深い巻五における内容を見てみましょう。
萬葉集第五巻(雑歌で構成)大伴旅人、山上憶良に関わる歌が多く見られます。特に日本挽歌、梅花の宴は有名です。
日本挽歌とは、何でしょうか。大伴旅人が大宰府に赴任して間もなく妻を亡くします。大宰府に赴任する時の年齢からみても、人生最後の勤めになるかもしれないと考え、老妻を伴ったと言われています。妻を亡くした旅人の心境は悲しみに包まれました。これに対し、山上憶良がその気持ちを踏まえた挽歌を贈り、これを機に二人の関係が深まったと言われています。旅人の悲しみの歌「凶問に報ふる歌」に続く歌としてこの日本挽歌が記載され、それは長歌、それに添える反歌として形成されています。 一方、梅花の宴は、天平二年(七三〇年)正月十三日、大宰帥大伴旅人卿の邸宅に大宰府と管内諸国の官人三十二人を招き、梅を愛でる会が催されました。これが梅花の宴です。当時の梅は大変貴重であり、誰もが見ることが出来たわけではありません。尚、ここでいう梅は白梅です。紅梅は遅れて入ってきます。この宴に於いて三十二人により詠われた三十二首の歌が、第五巻には掲載されています。
日本挽歌
凶問に報ふる歌(巻五 七九三) 大伴旅人
世の中は空しきものと知る時し いよよますます悲しかりけり
(大意)世の中はむなしいものだと知るときに、いよいよますます悲しいことです
日本挽歌一首(巻五 七九四) 山上憶良
大君のとお朝廷みかどと しらぬひ 筑紫つくしの国に 泣く子なす したまして
息だにも いまだ休めず 年月も いまだあらねば 心ゆも 思はぬ間に
うちなびき やしぬれ 言はむすべ せむすべ知らに 石木いはきをも 問ひけ知らず
家ならば かたちはあらむを 恨めしき 妹のみことの あれをばも いかにせよとか
にほ鳥の 二人並び 語らひし 心そむきて 家離いえざかりいます
(大意)天皇の遠い政庁として筑紫の国に泣く子の様に慕って来られて、一息も付く間もなく年月もまだ経たぬ内にぐ ったりと臥してしまわれたので、言うべきも、するべきも、わからず石や木に尋ねることもできない。家に居たら無 事だっただろうに恨めしい。妻が、この私にどうしろというのか。二人並んで夫婦の語らいをした、その心をも無かったことにして、家を離れて行かれた。
長歌に添える反歌
家に行きて如何にか吾がせむ 枕づく妻屋さぶしく思ほゆべしも
(大意)奈良の家に帰って、どうすればよいのであろう。妻屋が寂しく思える事だろう
(原文)伊弊尓由伎弖いへにゆきて 伊可尓可阿いかにかあ  都摩夜佐夫斯つまやさぶし 於母保由倍斯母おもほゆべしも
愛しきよしかくのみからに 慕ひ來し妹が心の術もすべなさ
(大意)かわいそうに こんなに短い命なのに、慕ってやってきてくれた 妻の心のあわれなことよ
(原文)伴之伎与之はしきよし 加久乃未可良尓かくのみからに 之多比己之したひこし 伊毛我己許呂乃いもがこころの 須別毛須別那すべもすべな
悔しかもかく知らませば あをによし国内ことごと見せましものを
(大意)残念だ こうなるとしっていたならば筑紫の国を隈なくみせておけばよかった
(原文)久夜斯可母くやしかも 可久斯良摩かくしらま 阿乎尓与斯あをによし 久奴知許くぬちこ 美世摩斯母乃乎みせましものを 
妹がみし楝の花は散りぬべし わが泣く涙いまだ干なくに
(大意)妻が見た栴檀の花は散ってしまいそうだ。わたしの泣く涙は、まだ涸れていないのに
(原文)伊毛何美斯いもがみし 阿布知乃波那波あふちのはなは 知利奴倍斯ちりぬべし 和何那久那わがなくな 伊摩陁飛那久尓いまだひなくに
大野山霧立渡る わが嘆く息嘯の風に霧立わたる
(大意)大野山に霧が立ち渡っている。私の嘆く溜息で、霧が立ち渡っている
(原文)大野山おおのやま 多知和たちわ多流たる 和何那宜わがなげ 於伎蘇乃可是尓おきそのかぜに 多知和たちわ多流たる